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2008.12.03
【オレンジデイズ】論ずる
オレンジデイズ・手話シリーズ日記の続きです。手話にハマった僕の心には、当然ドラマ『オレンジデイズ』がありました。
手話を始めたら、もう彼らの手話を見たくて仕方なくなったのです。あの青春模様も見たくて。
3日悩みました。
Amazonへ通い詰めて、カスタマーズレビューを読み込んで、中古と新品を比べたりして…。3日後、Amazonで購入のボタンを押す僕の姿が…!!!!
オレンジデイズのDVD BOX(全5巻11話+特典映像収録)(写真のやつ)を、15000円程出して買いました。おかげでものすごくプロレタリアートです(^o^)/服が買えないけど我慢。
DVDの中身については次の日記で書こうと思います。僕は届いた日から4日程で10時間分くらいのドラマ全話を見終わりました。ハマったね、マジ。
んでまぁ今日はオレンジデイズとはちょこっと離れますけど、『手話』について…『手話をやる事』について、それがどういう事なのかを初心者なりに考えてみたいと思います。
手話というのは、あくまで耳の聴こえない方(あえてそのまま、聴覚障害者と表現します。)が生活の便のために生み出されたコミュニケーションのツールであります。どういう歴史があるかは分かりませんが、作った人は大変な偉業を成し遂げたと言えるでしょう。
(※ちなみに、手話にも色々な種類があります。僕は日本手話という一般的なものをやってます。また、国が変わると手話も異なります。)
どんな手話にしても、実際に必要に迫られて使用している聴覚障害者の方にとっては欠かせないものです。その一方で、手話は一部の健常者にも親しんで使用されています。
※『健常者』『聴覚障害者』という呼び方に関して。
『障害者』という言葉を、『障がい者』という風に表記する動きがあります。僕はこれには賛成出来ません。障害者の方々自身が『害』という漢字を使われるのを強く嫌がっているのならば、それもありかと思います。しかし、この表記はそういった理由から生じたのではなく、一部からの過剰なまでの『障害』への反応から生じたのである事は否めないと思います。確かに『害』という漢字はいい意味には捉えられませんけど、そこだけ取り上げて騒ぎ立てる必要なんかなくて。そんなものに誰も反応をしなければ、何の疑問もなくスルーされていって、その結果として(確かに全然違うけど、)『障害』だからって『健常』と何の別をする必要があるのか、当たり前ながら本質は何も変わらないんだ という精神を育めると思うんですよね。それをわざわざ"人権団体"が騒ぐもんだから、ただの身体的な差異が必要以上に強調される。例えば政治学的に言っても、人間なんてもともとゾーンポリティコン(社会的動物)といって 共同体内の相互扶助に依存して生きる動物なんですよ。その互助のレベルは、誰でもそれぞれに違って、『障害』の分だけちょっと助
けが必要になる事はあってもそれ以上騒ぐ必要はないと思うんです。
また別の点から考えると、今回のMr.Childrenのニューアルバム『SUPERMARKET FANTASY』のインタビューで桜井さんが言っていた言葉にも繋がります。
『環境問題やエネルギー問題やその他様々な"問題"が騒がれて大変だ大変だって言われてるけど、じゃあ何が"正常"なの?って思う』みたいな事を言ってましたよね。そう。パターナリズム(父系血統主義とは異なる意味合いで。)というか広義でのナショナリズムやエスニセンタリズムというか何と言うか、絶対的に○○である!という『正常な』パターンを据えて、そこから少しでも逸脱するものは『異端(者)』として扱われる。(同化と排除が進められる。)じゃあその"正常"は?というと、あくまで人為的な性質を帯びていたり恣意的であったりして。『障害』の問題がその通りだとは言いませんけど、『害』を騒ぎ立てる事、必要以上に『健常者』というのを強調したがる姿勢に対してはそういうおかしさを感じますね。
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手話を使用する健常者には、聴覚障害者とコミュニケーションを取る必要がある人以外にも、サークルで!とか、ボランティアに行ってみたくて!とか、オレンジデイズを見て!とか、僕みたいに手話が面白そうで!とか、実際には使う必要のない…言うなれば『趣味』のような目的でやる人も存在します。しかも結構。
それらの存在をどう捉えるべきなのか。
たまに、『耳の聴こえない人が本当に必要で使用している手話を、遊びで…軽い気持ちで使うのはおかしい!』と主張する人がいます。(いるよね?!いなかったらそれでいいんだけどさw)
僕の意見としては、ある程度の誠実さを持ってであれば、誰もが手話をやっていいと思います。まぁ当然かな?(次は、どの程度なのか、誠実さとは具体的に何か が問題となりますけど。)
そりゃあ、手話や聴覚障害者を馬鹿にしたような振る舞いは許せる訳がありません。けど、遊びでも、例えば小学生が学校でちょこっと知って楽しそうだったからってパッと思い立ってその場限りでやってみたとしても、全然ありだと思うのです。やってみようと思う事に罪はないし、それによって被害を被る人も生じないだろうし、楽しんでやってもらえたら素敵だと思える訳です。
今日はちょっとまともにまとめをしてみたいと思います。
手話は誰がやってもいいよ!という意見にしても、またさっき出てきた『障害者』も含めた共同体全域で助け合って行くという考えにしても、一貫して重要なのは『寛容性』であると思います。個人の寛容性であると同時に社会の寛容性でもあり、それは市民の人格の成熟や政治的成熟を反映していると言えます。
障害者の問題だけじゃなくて、グローバル化した社会での外国人に対する寛容性など、つまるところ自分を内包する集合と異なる性質を持った存在に対する寛容性という訳です。
みんなでみんなを認めていきましょ!と(^ω^ )
難しい事は考えず、楽しく手話やりましょ!と(^ε^)
…つまりはそういう訳ですね。
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